「私」という積み重ねで作り上げた人物
私は大勢の中に属すると、自分という人間を作り上げて「さとうえみ」という人物を演じてしまう。
愚者になりきるというか、自分がどのポジションにいたら周りはどう楽しめるのか?を無意識に察知して演じてしまう。
面倒見のいいお姉さん役だったり。
きっぷのいい姉御役だったり。
あえての嫌われ役だったり。
だけど自分と向き合うと決めたこの3日間だけは素の自分でいたかった。
素の自分が実際どんな自分なのかも忘れてしまっているからこそ、素の自分を再確認もしたかった。
アート合宿ってただ絵を描くだけでしょ?と最初は思っていた。
だけど感性に触れるということは自分自身を見つけ出す機会になるのでは?と思いはじめてから、一番自分にいい状態で参加しようと考えた。
まずあえて知り合いがあまりいないであろう日程を選んだ。
知り合いがいると途端に作り上げた「さとうえみ」が顔を出すからだ。そしてその選択は正解だったと思う。
振り返ってみて、もっとあの人と話しておけばとか、もっとこの人とは違った関わり合いができたのではないかとか。
そんなことを数え上げるとキリがないけど。
きっとあの場を共有できた人たちとは、今まで私が保ってきた人とのつながり方とは違ったつながりを持てた気がする。
これからの関係性もきっと今までにないつながり方をするのではないだろうか?と思っている。
初日にして号泣した。
合宿の最初のワークは大きな模造紙いっぱいに目の前の色を使って描き出すこと。
次にその描き出したアートに自分の種を作る。
パートナーになった人との絵を互いに見て感じたことのシェアタイムをはさみ、その後はパートナーの人の種に描き足しをしていく。
さらに参加者全員の絵を見てまわり、気になる絵に描き足しをしていく。
この一連の流れの行程が本当につらかった。
3日間の合宿の中で1番つらい部分を初日で味わった、いま思うと。
私は自分が行うことについて周りがどう思っているのかかなり気にしている。
ここを気にせずにいればどれだけラクに生きられるだろうといつも思う。
そしてそれだけ自分のことを気にしているぶん、周りが自分に対してどういう行為をするのかもかなり見ている。
このワークでは自分が他者にすること、他者が自分に対してすることを、間接的に味わうことになった。
自分が何を大切にしているのかが見えて、自分が他者に対してどんなことに脅威を抱いているのかもわかった。
一旦休憩をはさんだ夕食中も、ずっとワークで感じたことが気にかかっていた。
そして会場に戻った時に、一緒にいた人たちに自分の感じた胸の内を話してみた。
もう話し始めている時から気持ちがあふれだして止まらなく涙が溢れた。
・他の人の絵に描き加えることが怖かったこと。
・どこまで手を加えていいのかわからず戸惑ったこと。
・描き加えないでいることも相手に失礼なんじゃないかと思ったこと。
・自分の絵に描き加えられることに痛みを感じたこと。
・にもかかわらず後で見た自分の絵には変化を感じられずつまらないと思ったこと。
他者との見えない境界線をどう取り扱っていいのか悩んで苦しんだ。
他者に自分のテリトリー内に入られることへの恐怖感を感じた。
こんなにも私は人付き合いにハードルをもうけていたのかと気づいた。
私がよく傍若無人に振る舞うのは、自分が多少のボーダーラインを見誤ってもあの人はああいう人だからという、ある種の保険をかけていたということにも気づいた。
それは真逆の行動に見えるだろうが、自分が他者に不快感を与えていないだろうかということがいつもすごく気になっていたからの行動だった。
誰1人として嫌われたくないのが私の理想だ。
でもそれがただの理想だということを自分自身に納得させるために、嫌われてもしょうがないという理由すら自分に作っていた。
コミュニケーションに正解はなくていつも手探り状態。試行錯誤した上での私なりの策が、人よりも度を越している風な人物を演じるということだった。
空気を読んだうえで空気を壊しにいくことが私の強みでもあり、弱みでもあった。
「相手への愛情の濃さからきているんだね」
と、主催の方に言われて突如号泣してしまった。
なんでこんなに自分は人と関わることに絡み合った思考を持っているのだろうと、自分をずっと責めていた。
自分ですらこの行動の起因となる部分を忘れ去っていたのに、話すことで思い出させてもらった。
私は自分の愛情は重いものであって、人にはなるべくライトに示さないといけないと思っていた。もちろんそれは勝手な思い込みでもある。
そのおかげでというか、どんなに大事に思っていてもクールに振る舞うという足枷をつけていた気さえする。
他者への愛情からゆえの自分の気持ちの複雑さに気づいて、もうボロボロに泣いたうえで、自分の「種」に新たに手を加えることにした。
私が大切にしたいものを現すことで得た充足感。
私は、自分の想いや他人への愛情を、どう表現していいのかいつもわからなかった。
だからどの愛情表現が正解なのかを探すことだけをしていて、本来自分がどうしたいのかは置き去りになっていた。
でも本当はすごく表現をしたかったのだ、大好きだということを。
2日目の朝、私は温泉に入っているときに自分の頭に浮かんだ映像を絵に書き出してみようと思った。
それは具体的な絵でもなく、抽象的な絵だけども、なにがどうしてこうなったという自分からの説明は一切できない絵だった。
でもこれを描きはじめた段階で、すでにわたしは満足感を得ていた。
誰にも評価されなくとも、私がいま描きたいと思ったものを描いてみようと思えたし、それができたことに充足感を得た。
すると主催の方に、その絵には愛情が溢れているねと声をかけられた。
あえて意識はしていなかったけど、愛情を表現するということをしていたのかと思うと、また泣きそうになるのをグッと堪えて描き続けた。
「体現する」
思想や観念などの精神的な事柄を具体的なものとして形にあらわすこと。身を持って実現すること。
今年に入ってからこれをずっと意識していた気がする。
自分の夢や希望をしょせん夢だからと放置するのではなく、ひとつずつでもいいから進んでいくということに意識を向けてみることにした。
少しずつ表に出して現すことができてきたような気がしていたところでの、この色と言葉にそのままの自分を出していいのだよと言われた気がした。
パートナーは必然の人だった。
私は人見知りをするけどもなるべく相手にわかられないように、先回りしてベラベラとしゃべってしまうところがある。
何よりも沈黙の時間が苦手だ。あれこれ余計なことを考えてしまうから。
この人は今何を考えているのだろうか?
何か不快な思いを抱かせたりしていないだろうか?
シェアタイムではその今までの癖がついつい出てしまった。
ペアになった子は発言自体が少なめの子だった。だけどとても表情が柔らかく豊かな子で、絵からもその素晴らしさが滲み出ていた。
話しながら途中で、自分の不安から話し続けている自分に気づいた。
もっと自分と相手の距離を大事にして、相手のテリトリーにはやみくもに踏み入らず、でも適切な距離感を保とうと思い始めた。
そのことにより私が今まで体感したことのないコミュニケーション方法を知ることができた。
知らずに今までいたのは、私が今まで言葉と行動にのみ重きを置いてコミュニケーションをしすぎていたからだと思う。
コミュニケーションの方法を考え変えて実行したこと自体も、結局は私の相手を大切に思っているという思いを渡す行為なのだと思った。
愛情の表現方法は目に見えたわかりやすい形じゃなくても、しっかりと表現できると感じられて、それだけで私は満たされた。
愛情を絵という形で現す。
最終日、全ての絵を見てもらい、参加者の皆さんから受け取ったわたしの絵に向けてのワンワード。
これもパートナーであってくれた彼女があとでそっと伝えてくれた。ありがたすぎて泣ける。
力強さ
多面性
夢の中
パラレルワールド
私はここにいるよ
そよかぜのような愛
本当の優しさ
命への愛
大胆
あの時
繋がる
悲しかったこと
心の叫び
学びたいもの
みせたいもの
母性
私がこの合宿で描いた「愛情」というテーマとなったアートたちを最後に。
思いを出し惜しみせずにそのまま伝えること。それだけで大切な人は実はしっかり受け取ってくれる。
拒否されることが怖くて、愛という思いを表現することが怖くて仕方なかったのが、今では小出しでもいいから出していこうと思えるようになっている。
この合宿で得た1番の学び。
毎日泣きながら少しづつだったけどやっと書き出すことができて感無量。
最後まで読んでくださってありがとうございました。